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以下は2009年2月20日にシネコンで2回続けて見たあと3月22日に提出された批評です。どうして見てから提出まで1か月もかかっているのか今となっては思い出せません。何か理由はあったはずですが、、ただ、見たあとに少し冷ます、、ということは今でもやっていることです。少し時間をおいてからもう一度書いてみる。そうするとまったく違ったことを発見できることがあります。全文そのまま再出します。2023年9月16日藤村隆史

映画批評.映画評論

クリント・イーストウッド「チェンジリング」(2008)~アンジェリーナ・ジョリーの「16回の涙」について 2009.3.22


この映画の中で、母、アンジェリーナ・ジョリーは16回泣いている。

     警察への電話で息子の捜索を依頼している時

     電話交換士の職場で、警部のジェフリー・ドノヴァンが、息子が無事保護されたとの知らせを持ってきたとき

     駅のホームに「息子」を出迎えた時

     警察へ出向き、帰って来た少年は息子ではないとジェフリー・ドノヴァンに抗議しているとき

     警察から差し向けられた医者のことで、ジェフリー・ドノヴァンに抗議の電話をしているとき

     家で「あんたは私の息子じゃない!」と少年に皿を投げつける時

     ベッドでうつ伏せに寝ている少年の背中をさすりながら謝罪している時

     雨の中、傘をさしながら、マスコミの前で声明文を読み上げた時

     精神病院へ入れられ、ベッドの上で横になっている姿を俯瞰からトラックアップしながら捉えた時

     精神病院の院長室で、院長から詰問された時

     院長を殴り、電気治療で眠らされている女(エイミー・ライアン)を見舞った時

     退院後、ジョン・マルコビッチの家で、息子のことは諦めるように諭されるとき

     裁判の判決が出た時

     犯人(ジェイソン・バトラー・ハーナー)との面会後、面会室の中で泣き崩れたとき

     保護された少年の姿をガラス越しに見つめたとき

指を折って静かに数えていたのだが、確かに16回数えたはずであったが、残りの一回はどうしても思い出せないのでご勘弁。

①や⑮のように、涙が頬を伝うものもあれば、③や⑨のように、黒いアイシャドーが塗れているだけのようなものもある。だが、かつてクリント・イーストウッドの映画で、主人公がこれだけ「泣く」という映画が存在しただろうか。それほどこの「チェンジリング」のアンジェリーナ・ジョリーの泣きっぷりは凄まじいばかりである。どうして彼女はここまで泣くのだろう。息子が行方不明になったからだろうか。物語上は確かにそうかもしれない。「自分の息子が行方不明になり、心配して母が泣く」という極当たり前の観測が、物語上の解説である。だが出来事を羅列し抽象化して見た時に、どうもこの「チェンジリング」という「取替えっ子」の映画を我々は、どこかで見たことがある。

「チェンジリング」の出来事を見てみると、まず、①子供が行方不明になる。次に、②行方不明になった子供が五ヵ月後に帰って来る。③だが母は、それが自分の息子ではないと言い張り、息子を探し続ける、、、ここまでを良く見てみると、まず第一に、②によって物語が「閉じられている」。②によって、事件は解決してしまっている。少なくとも「公(おおやけ)には」、事件は解決しているのだ。するとこの映画は「公には閉じられた(埋もれた)歴史」の物語、ということになる。世間のあいだでは既に「解決済み」の事件を、アンジェリーナ・ジョリーが「掘り出す」映画なのだ。さらに②によって多くの人々は、帰って来た子供が真実、アンジェリーナ・ジョリーの息子であると断定するが、そこには政治的な力が働いており、見ている我々からも、彼がほんとうにアンジェリーナ・ジョリーの息子なのか、そうでないのか、確信できずにいる。その曖昧さを醸し出すものこそ「五ヶ月」という時の経過にほかならない。わずか五ヶ月であれ、急激に成長してしまう子供を果たして我々はほんとうの息子であると見分けることができるのだろうか。ここに「チェンジリング」という「取替えっ子」の物語の不思議さがある。時の経過によって、誰しもが『解決した』と喜んだか、或いは諦めた事件を、執拗に『掘り起こす』映画を我々は、どこかで見ているはずである。

そうしている内に、一人の少年が帰ってくる。何故今になって帰って来たのかという質問に少年はこう答えている。「ママに会いたかったから、パパに会いたかったから。そして何より、家に帰りたかったから」。

■帰ってくること

ここへ来て「チェンジリング」は急転直下、「帰ってくること(帰郷)」の物語であることが明らかにされる。「チェンジリング」とは、とっくの昔に「閉じられた」はずの物語を、誰かが「掘り起こし」、そしてまたいつか誰かが「帰ってくること」への希望を描いた映画なのだ。

■閉じられた物語を

私は今回「チェンジリング」を見た後、この物語とどこかで遭遇しているという観念に取り憑かれ、さしたる確信も無くフラフラと二本の映画を見直してみた。その一本は●「馬上の二人」(1961)という西部劇である。それはコマンチ族に子供たちを連れ去られた移民たちの悲惨な物語である。連れ去られた子供たちの親達は、二人の男に子供たちの「奪還」を依頼する。一人は保安官のジェームズ・スチュワートであり、もう一人は彼と旧知の仲である騎兵隊のリチャード・ウィドマークである。だが子供たちが連れ去られてからすでに10年近い年月が流れている。それでもなおかつ子供を「奪還」してくれと執拗に頼むのは肉親たちであり、それ以外の者たちは、その「10年」という、長すぎる時間の経過が、子供たちをして「インディアン化」させてしまっていることを知っていて、彼らは「奪還」については懐疑的である。子供たちを奪還することに対して社会は一見協力的でありながら、実は「NO」の決定を下している。物語は「閉じられて」いるのだ。そこへジェームズ・スチュアートとリチャード・ウィドマークの二人が、子供たちを奪還する旅へと旅立ってゆく。彼らは、公には「閉じられた」物語を「掘り起こしに」行くところの、禁断の使者=墓堀り人にほかならない。ここに映画としての「葛藤」が生まれてゆく。その中で、子供を連れ去られた女と結婚をしたがっているある男が、追跡に出発するジェームズ・スチュアートに向ってこういうような趣旨のセリフを言うシーンがある。

「違った子供でもいい。とにかく誰か連れて帰ってくれ」。

1961年に撮られた、「社会映画」でもなんでもない「ただの娯楽西部劇」において、既に「違った子供」=「取替えっ子(チェンジリング)」という主題が明確に露呈している。

■「捜索者」

今回見直したもう一本の映画とは●「捜索者」(1956)である。これもまた、コマンチに幼い娘を連れ去られた家族の肉親たちが、娘を「奪還」するための捜索の旅に出るという物語である。娘の叔父、ジョン・ウェインと、養子として育てられたインディアンとの混血、ジェフリー・ハンターの二人は、娘を探して追跡の旅に出る。ここで連れ去られた娘をして「ナタリー・ウッド」である、と即座に断定し得ないのは、連れ去られた時点で「娘」を演じているのは六歳前後の子役の少女であり、彼女が「ナタリー・ウッド」になるのは映画の終盤になってからだからである。1938年生まれのナタリー・ウッドは当時21歳、贔屓目に映画の中で10代の娘を演じていると見ても、連れ去られてから10年以上の年月が経過していることになる。

映画では中盤、ジョン・ウェインとジェフリー・ハンターが、とある施設にインディアンから救出された少女達の「面通し」をするシーンがある。しかし二人とも、その娘が「ナタリー・ウッド」であるのかどうか判らない。つまりこの映画にも「取替えっ子」のテーマが大きく被さってくるのである。そこでジョン・ウェインは、インディアンの墓を掘り出し、遺体の目を撃ち抜くという、恐ろしいまでの「墓堀人」として描かれている。

■探すこと

「馬上の二人」と「捜索者」という映画は、そのどちらもが、「捜索すること」の物語である。だがこの二つの映画は決してただの「捜索すること」の映画ではない。

「馬上の二人」と「捜索者」は、「それでも捜索すること」の映画なのだ。我々に対して「それでもなおかつ捜索をするのか」を、強烈に突きつけて止まない恐ろしい映画なのである。この「それでも」という葛藤が、映画の中に敢然と支配している。その「それでも」を突きつけて止まないマクガフィンこそ「取替えっ子」という「チェンジリング」の物語なのだ。「馬上の二人」と「捜索者」は、どちらもが大いなるユーモアと共に撮られていて、一見「ただの娯楽西部劇」として見放されがちであり、そしてもちろん「馬上の二人」と「捜索者」は「ただの娯楽西部劇」なのだが、この「ただの娯楽西部劇」は、実は非常に怖ろしい「ただの娯楽西部劇」として「現代」を我々に突き刺して止まないのである。仮にこの2本の映画が、大いなるユーモアを交えずに「社会映画」として撮られていたならば、おそらく見ているものたちは「直視」できず、また、公開においても支障をきたしたと考えられる。それだけ怖い映画なのだ。

私は「心理的ほんとうらしさと映画史」の第二部の中で、「捜索者」は、「捜索」する映画のように見せかけて、実は「帰ってくること」の映画であることが視覚的に露呈していると書いた。だが今回、「チェンジリング」を見て、そして「馬上の二人」を見直してみると、「捜索者」は、まずもって「捜すこと」の映画であり、それに加えて「それでも捜すのか」という「取替えっ子の物語」としての主題が大きく露呈しており、だからこそ「捜索者」において、どうしてジョン・ウェインとジェフリー・ハンターの二人がああして何度も何度も「帰ってくる」のか、その理由が改めて問われたのであるが、「捜索者」は「取替えっ子」の物語である以上、そこには必ずや「時間の経過」というものが必要となり、だからこそ二人は、何度も何度も「帰ってくる」のではないか。何年も何年も探し続けて、娘が「ナタリー・ウッド」になった頃合になって初めて映画の物語は「取替えっ子」という、誰が自分の子供か判らない、という物語によって「閉じられる」。そのために二人は延々と旅を続けるのだ。

もちろんそれが「帰ってくること」の美しさと渾然一体となって映画の美しさを規定しているのだとしても、「取替えっ子」の物語とは、時の経過によって「閉じられてしまう」ことに一つの大きな映画的な意義があり、だからこそ「それでもなお、」という葛藤が露呈し、映画が「映画」になるのである。

「チェンジリング」の場合、息子が帰って来るのは「五ヵ月後」であり、「捜索者」や「馬上の二人」に比べて異常に短い。だが、だからこそこれが「実話」であることと相まって、リアリティが増している。こうした人間の目のあやふやさというものを「写真」という証拠を例に捉えたのが「父親たちの星条旗」(2006)という映画であり、そこには「リバティバランスを撃った男」との映画的関係があると私は以前の批評で書いたが、「チェンジリング」においてもまた「人間の目のあやふやさ」というものが大きな主題として露呈している。だがイーストウッドが「チェンジリング」において撮っているのは、そうした「人間の目のあやふやさ」に戸惑い、「見ること」を放棄せよ、との軟弱な逃避ではない。「それでもなおかつ直視しなさい」という「掘り起こせ」の意志なのである。「チェンジリング」のアンジェリーナ・ジョリーの「16回の涙」こそは、ひたすら事件を直視し続けたアンジェリーナ・ジョリーが、見つめることによって傷ついた瞳を癒すところの「美」そのものなのだ。それはまさに「捜し続ける」ことの意志の現われに他ならない。

■ロン・ハワード

私はどうしてこんなことを書いているのだろう。この「チェンジリング」を見ていれば、誰しもがアンジェリーナ・ジョリーは「捜す人」であり、社会を敵に回しながらも行動し続ける母であることは感じられるところである。それでもなおかつ私がこの映画を「捜索者」と「馬上の二人」という、とある監督の映画に結び付けてしまわざるを得ない衝動を、決して抑えることは出来ないのは、この映画の物語がJ・マイケル・ストラジンスキーというジャーナリストによって「発掘」され、それを見たブライアン・フレイザーとロン・ハワードというコンビがこの物語に「反応」し、さらにその二人の脚本を読んだクリント・イーストウッドがこれまた「反応した」という事実と関連している。「ロン・ハワード」なる映画狂は、ジョン・ウェインとも競演したことのある男であり、素性からして極めて「怪しい」人間なのだが、そのロン・ハワードがこの「取替えっ子」の物語に「反応した」のと、クリント・イーストウッドが「反応した」こととはおそらくほぼ同義であり、それに私もまた「反応した」という事実を、ここでは書いているのだが、その「反応した」とは決して「物語」における反応ではなく、視覚的な細部における記憶の断片なのである。彼らが「反応した」のは、「母親が子供を捜し続ける」という物語だけではないはずである。もっと大きな映画的記憶と、それが現代という時代にマッチするに違いないという、映画人としての直感であったはずなのだ。そこにアンジェリーナ・ジョリーの「泣くこと」が大きく絡んでくるのである。

■帰ってくること

その昔、ハリウッドには、ひたすら男達が「帰ってくること」を美しく撮り続けた大監督がいた。彼はすでに50年前に「捜索者」と「馬上の二人」という「取替えっ子」の物語を撮っていた。

「私の名前はジョン・フォード。西部劇を撮っている」、

彼は赤狩りが吹き荒れるハリウッドのとある集会でそう豪語した。彼はひたすら「アメリカ」の成り立ちと、それに対する郷愁を撮り続けた。彼は社会の進歩を認めた。だが決して彼は、彼らの社会の「土台」を創り上げた人々たちが、進歩を標榜する世の中から忘れ去られてしまうことを許さなかった。そうやって彼は、何度も彼らが「帰ってくる」映画を美しく撮り続けたのである。

私がこの映画に「ジョン・フォード的なるもの」を感じたのは、実は「取替えっ子」という物語にではない。最後の最後にある一人の少年が、何故今になって姿を現したのかという質問に「家に帰りたかったから」というひと言を吐いた瞬間なのだ。「取替えっ子」の物語とは、あくまでも「帰郷」のための物語なのである。だが現代における「帰郷」とは、決して無邪気な帰郷ではない。

■掘り出すこと

クリント・イーストウッドの映画とは、ジョン・フォードとハワード・ホークスとアルフレッド・ヒッチコックの回りを衛星のようにクルクルと回り続ける運動である。

人は「ブロンコビリー」や「スペースカウボーイ」を見たとき、誰しもがハワード・ホークスの「コンドル」や「ハタリ!」、そして「無限の蒼空」という「チームの映画」を連想するであろうし、「硫黄島からの手紙」や「父親たちの星条旗」、そして「パーフェクトワールド」を見たならば、瞬時にジョン・フォードの「リバティバランスを撃った男」や「黄色いリボン」という「発掘の映画」を想起することにやぶさかではない。そして何より処女作「恐怖のメロディ」は、愛しいばかりの「ヒッチコック」で埋め尽くされていたはずである。そうした中で時代は今「ジョン・フォード」を求めている。クリント・イーストウッドは硫黄島二部作において、我々日本人にすら忘れ去られていた硫黄島の戦いを掘り起こしてみせたことは記憶に新しいばかりか、「スペースカウボーイ」や「センチメンタルアドベンチャー」において描かれた美しい男たちもまた、「忘れ去られた者たち」であった。

■痕跡を求めて

直視し、涙を流すこと。だが「直視せよ」と言われても、現代の「取替えっ子」の物語に「直視する」対象がはっきりと露呈しているだろうか。

「馬上の二人」にはオルゴールという、そして「捜索者」には勲章という「痕跡」が用意されていた。「馬上の二人」で救出された少年は既にインディアン化していて、言葉すら忘れてしまっている。彼の記憶を呼び覚ましたのは、幼少時に親からもらったオルゴールのメロディであった。「捜索者」の場合は、ジョン・ウェインが娘にプレゼントした南北戦争の勲章をインディアンの酋長が身に付けていたことが、娘の同一性を確認するための映画的記号であった。

だが「チェンジリング」は違う。そこに息子の「痕跡」なり「記号」なりというものは存在しない。ここである種の記号として働いた「歯型」なり「教師の証言」なりというものは、帰って来た少年が「実の息子」ではない、という否定的記号として役に立ってはいても、真実の息子がどこにいるかという記号としては存在していない。あるのはひたすら「誘拐犯の証言」というあやふやな記号だけである。映画は誘拐犯をして、アンジェリーナ・ジョリーの息子を殺したかどうかを、決して明らかに言わせない。露骨なまでに、誘拐犯は口をつぐむのである。そうすることで母親のアンジェリーナ・ジョリーは「痕跡」すら不確かな空間へと放り込まれてしまうことになる。

■発掘すること

「忘れさられた者や出来事」とは「閉じられた物語」にほかならない。「閉じられている」からこそ、映画はそれを「掘り起こす」。「チェンジリング」という映画の物語における「取替えっ子」という出来事は、物語が「閉じられること」へと向けられたマクガフィンなのである。映画を物語的に読んでしまいがちな我々は、「チェンジリング」の物語を「取替えっ子」の物語として限定してしまいがちだが、映画史的な構造から言うならば、「取替えっ子」の物語とは、「閉じられた物語」を「それでもなおかつ掘り崩し直視するのか」の厳しい問いかけに他ならない。

誘拐犯の共犯とされた少年は、誘拐犯の家の庭の土を掘り起こし、そして泣いている。ジョン・フォードの時代には決してヒーローが「泣くこと」などあり得なかった「取替えっ子」の物語において、人々はひたすら泣いているのだ。そうして初めて「帰郷」の物語が語られる。現代における「帰郷」とは、あるかないかも判らない「痕跡」を求めてひたすら「捜す」ことの運動なのだ。そこには必ずや「それでもなおかつ捜すのか」という、「取替えっ子」の物語が突き付けて来る問いかけに対する確固たる意志が問われている。

「捜索者」という映画が多大なるエモーションを引き起こすのは「それでもなおかつ捜すのだ」という「帰郷」へと向けられた強い意志が、ひたすら画面を支配し続けていたからなのだ。

■今

我々は今、こうした物語の渦中に生きている。私たちは、世界のどこかで、崩れ去ったビルディングの下に埋もれ、瓦礫の藻屑と化した者たちの「痕跡」を求めて日々、探し続けている人々を知っている。どこかの国に連れ去られ、生きているのか死んでいるのかさえ判らない人々を、数十年という年月をかけて、それでも捜し続けている人たちを知っている。彼らにとって物語は閉じられている。だが、それでもなおかつ彼らは忘れ去られた人々の「痕跡」を求めて「帰郷」の物語を夢見て捜し続けている。だからこそ彼らは美しいのだ。

黒沢清の「叫び」という映画は、「誰にも見つめてもらえず、無視されて死んでいった娘が幽霊になって出て来て、男に『会いに来て』と頼む。男が女の住んでいた場所へ会いに行くと、ただそれだけで女は男を赦し、消えて行く。男は女の骨を拾い、何処へともなく旅立ってゆく」という物語であったし、トニー・スコットの「デジャヴ」という映画は、「テロリズムの犠牲となり、その他大勢として死んだ名も無い一人の娘を監視カメラのビデオでひたすら「盗み見」し続けた刑事が、娘に恋をしてしまい、タイムマシンを作って生前の娘に会いに行き救い出す」という物語であった。どちらもがまさしく「閉じられた物語」を「見つめること」と「掘り起こすこと」の物語である。阪本順治の「闇の子供たち」はまさにそれを地で行った映画であったはずだ。今、多くの作家たちが「閉じられた物語」を掘り起こそうとしている。バカバカしいのは、それを阪本順治のように「社会的告発映画」として描くと知識人に評価され、黒沢清やスコットのように「娯楽映画」としてワンクッション置いて撮ると知識人に無視されるという事実である。「知識人」とは「バカ」なのではないか?、、、

かつてヒーロー達に奪還された子供たちがいた。彼らはエプロンをした母に迎えられ、嬉しそうに家へ帰って来た。だが時代は少しずつ変わり、ヒーロー達の帰る家がなくなる(「捜索者」のジョン・ウェイン「宇宙戦争」(2005)のトム・クルーズ)。或いは帰ってきても自分の子供かどうかわからなくなる(「馬上の二人」)時代がやって来る。そして今や、失われた者たちの「痕跡」すら不確かな時代となり、時として帰って来るのは「よその子」であって、「自分の子」は痕跡の瓦礫の中で埋もれたまま、誰かが捜し出してくれるのを、声も出せずに待っている。その痕跡を「掘り起こす」こと。それが「現代」という時間が我々に突き突けた避けることの出来ない物語なのだ。

■希望

「チェンジリング」において帰って来たのは、16回瞳を濡らしたアンジェリーナ・ジョリーの息子ではない。よその子である。そうした、よその子の帰郷という物語を、反射するガラス越しにじっと見つめていたアンジェリーナ・ジョリーの頬に、この映画で一番美しい16回目の涙がしっとりと伝っている。泣き続けたアンジェリーナ・ジョリーが最後に流した美しい涙は、自分の子供ではなく、よその子の帰郷に対する涙なのだ。

16回目の最後の涙を流したあと、アンジェリーナ・ジョリーは涙を拭いて、胸を張って旅立ってゆく。母として、隣人として、他者に対する無償の涙を流し続ける愛の力。その力こそ、現代が抱え込んだ「痕跡」という亡霊を「それでもなおかつ捜し続けること」という、ジョン・フォードが遺した帰郷の物語へと結び付ける唯一の希望にほかならない。

映画研究塾2009.3.22